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全国すべての市を制覇する旅に出ます

日本にはたくさんの魅力ある市があるにもかかわらず、なかなか探訪する機会がないので、コツコツ全国の市に訪問してみようと思いました。このブログはそんな訪問の記録。

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識別性+愛=珍地名??

本を読んで考えた

 

地名とは何か

 「地名とはそもそも何であるかというと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である」(柳田國男『地名の研究』17ページ)

 

 

地名の研究 (講談社学術文庫)

地名の研究 (講談社学術文庫)

 

 

では、その符号はいかなる基準によって決定されるのか?

 

地名は我々が生活上の必要に基いてできたものであるからには、必ず一つの意味をもち、それがまた当該土地の事情性質を、少なくともできた当座には、言い表していただろうという推測である。官吏や領主の個人的決定によって、通用を強いられた場合は別だが、普通にはたとえ誰から言い始めても、他の多数者が同意をしてくれなければ地名にはならない。(中略)よほど適切に他と区別し得るだけの、特徴が捉えられているはずである(75ページ)

 

 

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性器と地名ときりたんぽ

そう、地名には他と区別できる識別性が必要であり、その識別性を用いることへの他者の明示的、暗黙的な同意が必要である。

 

よほどの権力者でない限り、自分勝手な思いつきで地名を決めることはできない。今日の九州の福岡市にゆかりの地の福岡(今日の兵庫県)の名を黒田長政が付けられたのは、彼が殿様だったからに他ならない。

 

mtautumn.hatenablog.com

 

地名命名の基準も様々で、女性器を語源とする地名さえある。

 

昔の人の感情は驚くべく粗大であった。羞恥と言う言葉の定義が輸入道徳によって変更されらたまでは、男女ともにおのおのその隠し所の名を高い声で呼んでいたらしい。しこうしてその痕跡を留めているいる地名のごときは、よほど起源の古いものと見てよろしいのである。これも海岸において往々遭遇するフトまたはフットと言う地名は、疑いもなくホドすなわち陰部と同じ語である(162ページ)

 

該当する地名としては、富土、風土、富津、布都、保土ヶ谷などが挙げられる。

 

「サヨナラ、きりたんぽ」は炎上の末、タイトル変更の憂き目にあったが、日本各地にはきりたんぽどころではなく、露骨に性器から名前を付けてしまった地名がある。

 

性器を連想させる名前は下品で、きりたんぽへの冒涜というのが「サヨナラ、きりたんぽ」への苦情の主たる理由だが、性器を連想させる名前はけしからんという意見は、そのまま保土ヶ谷への挑戦状であるともいえる(いや、いえないか)。

 

もっとも古代は陰部を下品なイメージでは捉えていなかったのかもしれない。古事記に載るオオゲツヒメ大宜都比売)は尻から食材を出す。それが汚いとしてスサノオに殺害されてしまうわけだが、彼女の陰部からは麦が、尻からは大豆が生まれたわけで、汚いというイメージもあった一方、生命や豊穣をイメージさせる場所でもあったのだ。実際、新たな生命を生み出す器官である。

 

オオゲツヒメ - Wikipedia

 

時代が変われば、考え方も変わる。

 

 

さて、それはさておき。。。

 

今日の新地名命名がモメるのは日本が民主主義国になったことの証左ともいえる。地域の実情を無視して珍地名を付けようとすれば、住民はおろか、日本各地から非難の嵐となる。かかわるアクターが増えれば、それだけ多数の意見がぶつかるから命名プロセスも複雑化するだろう。

 

民主主義でなくても、地名の決定は大変だったにちがいない。急いで決めなければならないこともあったろう。朝廷が、幕府が、大名が、守護が、地頭が、領主様が、御意見番が、なんらかの決まりをつくったり、領地争いを調停しなければならなかったとする。明確な地名がすでに存在してればよい。しかし、そうでなければ、その場で決めなければならないかもしれず、そうしたら、複雑な名前を付けるのは無理で、すでにある地名に東西南北や大中小、上中下、数字をエイやっと追加して名付けてしまったこともあるだろう。争いがあれば、円満解決のため、あえて縁起のかついで瑞祥地名をつけたこともあったやもしれない。

 

知識の向上と愛は珍地名を生む?

知識や参考にできる情報が増えればそれだけ新たな地名が増えると思われる。最近ユニークな珍地名が出てくるのは、昔と違って、われわれは多くの情報を収集し、それを理解できるだけの能力と手段を得たからではないだろうか。

 

昔の人は読み書きそろばんができない人も多く、テレビやインターネットもなかったから、興味関心は日常の生活空間に限られた。一部の知識層を除けば、古代・中世・近代の一般の人々は海外でどういった地名があるとは知らなかったから、当然に海外地名を参考にして自分の住む地域の名前を付けることはできなかった。海外どころか日本国内であっても、たとえば江戸時代であれば、一般の人が他藩の地名を知る機会はあまりなかったし、そうする動機も必要性もなかったであろう。

 

生活空間内での識別性で十分であれば、他藩と同じ地名がかぶったとしても困らない。多くの地域住民が地域外に移動することがないのであれば、他藩で同名地名があろうと、地域内での識別性さえ担保されていれば十分だ。多くの人は他藩に同じ地名があるとは知らないまま、そしてそれで困らないまま生涯を終えるのである。

 

でも今は違う。誰もがほとんどコストをかけることなく他の都道府県でどのような地名があるかを知ることができる。市町村合併で新地名を付けたいと思っても、他県に同じ地名があれば、後発組がその名を採用することは難しい。

 

それに今では多くの人が外来語を知ることも理解することもできる。参考にできる情報が増えれば、それを応用してみたいと思うのが人情である。しかも外来語のほうがかっこいいとされている。地名に取り入れてみたいと考える人が現れるのは当然だ。

 

他県の動向を知ることができれば、そこに競争も生まれよう。あそこの県がユニークな名前をつけた、じゃあ、うちも負けずに!というわけだ。

 

参照できる基準が増えたことが現在の珍地名ブームの背景にあると思う(キラキラネームも同様のメカニズムだろう)。

 

地名を軽視しているから、変な地名をつけるわけではない。他とは違う立派な名前をつけたいと気張るからこそ、意図せずして変な地名が生まれるのだ。他を知ってしまった以上、生半可な名前はつけたくない。地域を愛しているからこその暴走なのだ。

 

知らなければよかったのかもしれない。知らなければ王道の名前をつけたのかもしれない。知らぬが仏とはよく言ったものである(ちょっと意味は違うが)。

 

mtautumn.hatenablog.com

 

あまりに地域の歴史や実情にそぐわない名前をつけると、滑稽に思われたり、どこの地域を指してるかわからなくなり利便性が損なわれたりするから、地名の命名は慎重に行うべきだ。

 

とはいえ、他に地域の動向を知れば知るほど、うちも負けずに!という気持ちは何やらとても人間的で微笑ましくもある。いつの時代だって、縁起や個性は大事にされたハズだ。かつてであれば、それが当時の先進地域であった中国の地名や故事、「ホド」のように人間の生命力をイメージさせるものだったのであり、他県や他国のことを知ることができるようになった今日では、それが欧米の言語や新奇性を狙ったものになったのではなかろうか。

 

他と識別する、いや、他と識別したいという熱い想いが地名命名の根源的なエネルギーなのだろう。そして時として、愛は悲劇的な結末を迎えるのである。

 

 

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