青ヶ島の苦難の歴史
だいぶ記録に残すのに時間が開いてしまったが、昨年の夏に青ヶ島に行ってきた。往復ともにフェリー。プラチナチケットのヘリコプターの予約が取れなかったからなのだが、欠航率の高いフェリーは運良く往復ともに欠航になることなく、非常に順調な旅となった。
とはいえ、現代でもアクセス困難な青ヶ島。昔であればなおさらアクセスが大変だったわけで、その大変さを青ヶ島村教育委員会がまとめた「島史」をもとにまとめたい(青ヶ島村教育委員会『青ヶ島の生活と文化』1984年)。正直陰鬱な気持ちになるほど、苦難の歴史なわけだが、こうした苦難の歴史を知ることで、かえって青ヶ島の秘境感が倍増する。われわれは絶海の孤島に来たんだー、という秘境感が。実際、八丈島から青ヶ島までの3時間の航路で途中に立ち寄れそうな島は見当たらない。人工衛星もない昔に、よく青ヶ島を見つけたな、と深く深く感心させられるのである。
- 1220年:青ヶ島がはじめて文献に現れる。「保元物語」に「為朝、鬼ヶ島に渡る」との表記。この鬼ヶ島が青ヶ島らしい。
- 1428年:青ヶ島という名前が存在?八丈島、小島、青ヶ島は、だれの所有地がわからないとの表記が古文書にあり。
- 1429〜1440年:この頃から相州(今の神奈川)の奥山宗麟の支配を受ける(たしかに青ヶ島の墓地で「奥山」の名を見た)。
- 1467年:コメを積んだ伊勢の船が漂着。青ヶ島の島民が積荷のコメを奪う計画を立てたが発覚し返り討ちに。二児を残し島民全員が殺害される(京都で応仁の乱が起こっている頃、青ヶ島は青ヶ島で大変な事態であったようだ)。ちなみにこの頃の人口は約50人。
- 1474年:青ヶ島船が八丈島から青ヶ島に渡る途中に行方不明。
- 1475年:八丈島より青ヶ島へ船を出すが国地へ漂着。翌年に八丈島へ戻るが、半数が国地で死亡。
- 1476年:この年から2年間、八丈島と青ヶ島の便船途絶える(逆に言うとそれまでは毎年あったのか?それはそれですごい)。
- 1479年:八丈島から船が青ヶ島に出航。しかし、国地に漂着。八丈島に帰る途中、三宅島と八丈島の間で沈没。
- 1485年:2年前、八丈島から出航した船が青ヶ島からの帰途、難破し、船員1人を残し全員溺死。
- 1616年:讃岐国高松の船が、熊野灘で漂流し、青ヶ島に漂着(香川を出航し、和歌山あたりで遭難し、青ヶ島に漂着って奇跡としか思えない)。
- 1646年:青ヶ島、小島に痢病(赤痢)が流行し、約180名が死亡。
- 1652年:青ヶ島が小規模な噴火活動を示す。
- 1690年:伊勢の船が青ヶ島に漂着。
- 1691年:この頃、八丈島や青ヶ島にねずみが流入。
- 1696年:この頃の人口は約200名。青ヶ島の食糧事情は比較的恵まれていたらしい。
- 1700年:飢饉による困窮のため、小島の島民24人が青ヶ島に向かい行方不明。
- 1707年:八丈島の平太夫が不義を働き、青ヶ島に追放される。
- 1714年:青ヶ島の2少年が漂流。御蔵島に到着した後、青ヶ島に帰島。この年、青ヶ島に流行病が発生。村民全員が罹病し、多くの死者。
- 1716年:青ヶ島から年貢の紬と鰹節を積んだ船が八丈島の大賀郷に到着。同年、八丈島から青ヶ島船が出航したが、漂流し薩摩(鹿児島県)に漂着。
- 1717年:梅毒を罹病する島民続出。
- 1726年:青ヶ島にサツマイモが渡る。
- 1753年:当時の人口は261人。
- 1757年:青ヶ島で殺傷事件。浅之助という若者が男7人を殺害し、4人が重傷。
- 1768年:超大型台風襲来。
- 1774年:当時の人口は328人。
- 1781年:青ヶ島噴火。
- 1783年:青ヶ島大噴火。
- 1785年:3月に青ヶ島さらなる大噴火。4月から島民青ヶ島を脱出開始。しかし、間に合わなかった130〜140名は死亡。
- 1797年:青ヶ島に住む人はわずか9人。
- 1834年:青ヶ島の村人全員が還住を果たす(全員還住するまで50年余り。青ヶ島の歴史の中で最も重大な出来事の一つであり、還住Tシャツなど記念グッズが島で売られていた)
- 1861年:イギリス人による青ヶ島測量。
- 1870年:青ヶ島で大地震。
- 1874年:青ヶ島小学校創立。
- 1878年:東京都(当時は東京府)に編入。
- 1898年:流行病で50名死亡。
- 1904年:非常な不漁続き。
- 1923年:関東大震災。青ヶ島ではタライに張った水がこぼれる揺れ。
- 1925年:当時の人口は412人。
- 1927年(昭和2年):この年の12月に高知の船が青ヶ島に遭難。このときに青ヶ島の島民は昭和の改元を知る(約1年遅れで、大正から昭和になったことを知ったわけですな)。
- 1930年:青ヶ島村牛酪製造組合設立。バター製造開始。
- 1936年:青ヶ島郵便取り扱い所開設。
- 1940年:青ヶ島村になる。
- 1945年:青ヶ島で吹雪。2月に米軍機の爆弾2弾投下と機銃照射。被害はなし。4月の米軍機機銃照射では村人1名死亡。5月に空襲。小学校が全焼。
- 1946年:雪が降る。当時の人口は386名。
- 1947年:青ヶ島中学校創立。
- 1949年:東京汽船が父島ー青ヶ島航路を開く(この頃は小笠原と青ヶ島を行き来できたのか)。
- 1950年:第1回牛まつり開催。
- 1952年:小中学校PTA発足。
- 1955年:飛行機にて都知事寄贈の調味料、野菜等を投下。
- 1956年:電話開通。
- 1958年:はじめての衆議院議員選挙(それまで実施されていなかったということ?)
- 1959年:青ヶ島村長リコール(日本初)。
- 1960年:森繁久弥夫妻セスナ機で慰問品を投下。
- 1961年:奥山治さんが製氷機を購入。村ではじめて氷ができる。
- 1963年:奥山治さん村長に当選(製氷機購入の賜物か??)
- 1964年:プロパンガス導入。
- 1965年:ヘリポート工事。
- 1972年:「あおがしま丸」船下ろし。初来港。
- 1977年:31年ぶりの雪。積雪5センチ。
などなど
水難事故や台風被害は挙げきれないほど。 青ヶ島の歴史を知れば知るほど、たどり着くのが大変な場所だとわかる。満点の星空を見よう、なんていう華やかさは微塵も感じさせない。島民だってかなりの辛苦を味わったはずである。が、今ではわれわれが青ヶ島に癒しを求める時代。時代の変遷は面白い。青ヶ島は何も変わってないはず(もちろんインフラなどは徐々に整備されてきたわけだが)。むしろ青ヶ島を取り巻く外部環境、すなわちわれわれの暮らしが変わったのであって、われわれの住む場所が修羅の地になってしまったのかもしれない。
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ビジネス宿中里に泊まる
さて、宿泊先は、ビジネス宿中里さん。青ヶ島には民宿的な宿が何軒かあるが、ネットで検索する限り一番オススメされている宿のように思える。はじめに予約しようとしたら、青ヶ島まで来る手段の確定とレンタカーの予約が必要とのこと。ヘリコプターが予約できなかったのでフェリーで行くこと、レンタカーを確保したことを伝え、予約完了。当日八丈島からフェリーに乗るタイミングで電話するよう言われる。フェリーの欠航率が高いからなのだろう。
ビジネス宿と言いながら、実際はかなり民宿的な感じ。朝食、昼食、晩食の一泊三食付き。青ヶ島はランチできる場所がないため、中里さんに限らず一泊三食スタイルが定番である。われわれは二泊三日。いずれのランチもひんぎゃで蒸す用の食材セットであった。
晩御飯はかなり充実。島寿司に中里特製の島だれ。青酎もある。寿司のネタは忘れてしまったが、確かメダイやオナガダイだったような気がする。細長い魚は確かトビウオ。トビウオは青ヶ島の風物詩。
こいつらを中里特製の島だれで食べるとめちゃくちゃ美味い。島だれは中里で購入できるし、青ヶ島名物でもあるので経由地の八丈島でも買える。恐らく東京本土でもどこかで売っているのではあるまいか。ネットで検索すると通販サイトでも買えるよう。
味はピリ辛の濃厚味。ニンニクや生姜などが入っていて食欲を掻き立てられる万能だれである。中国の四川省やタイなどの東南アジアは辛い食べ物を好むが、ここ青ヶ島は温暖湿潤気候ながら東京本土に比べると体感的には熱帯であり、だからこそこういうパンチの効いた調味料を発明しようと思ったのかもしれない。醤油は世界に誇る万能調味料だが、島だれで食べる刺身もこれまた絶品格別なり。
↑上が一泊目の晩御飯。下が二泊目。
↑しまだれ。
新宿に「青ヶ島屋」というその名も青ヶ島や伊豆諸島の料理を中心としたメニューが味わえる居酒屋がある。2018年7月に行ったときは島だれはなかったが、刺身には醬油に島がらしを入れる。徐々に辛味が醬油に移っていって、これまたいつもの刺身とは一味違うたれとなって、美味しかった。
テレビでは、港の様子がライブ放映されている。フェリーが就航できるか確認するためだろう。また、テロップでヘリの運航や空席の状況が表示される。青ヶ島ならではのチャンネルだ。見ていたところで情報がアップデートされるわけでもないが、波があって画面に動きがあるせいか、ずっと付けっ放しでも案外飽きなかった。
漫画が多少置いてあり、「ダイの大冒険」は全巻が揃っていた。特に夜はヒマなので久しぶり全巻読破してしまった。
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翌日は青ヶ島のハイライト、二重カルデラを見に行くのであった。
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